九島院
  • 九島院の沿革

  •  当院は、霊亀山と号し禅宗の一派である黄檗宗に属する京都・宇治の黄檗山萬福寺の末寺で、別格地であります。
     当院の草創は、大坂で最古の名所記である『蘆分船』に「龍渓禅師庵」として小さい草庵の図をのせ、『九条村絵図』に「屋舗五歩、興禅庵大隨」とあるのが始まりであったと考えられます。
     その後、幕府役人の香西晳雲、土豪の池山一吉らの衢壌島開発に際して発展し、寛文3年(1663)拙道和尚を迎え、九嶋庵と称した草庵を、新田鎮護と五穀豊穣を祈念して寺にし、祈壽道場にしました。
     拙道和尚は、入佛開堂の法要に当たって師匠の龍渓禅師を請拝して開山和尚と仰ぎました。山号の霊亀山は、寛文10年(1670)8月15日、龍渓禅師による入佛開堂の法要の時、大きな海亀が花を背負って現れ来て祝福したという吉瑞に由来します。
     8日後の同年8月23日、当地に台風・大津波が来襲。当時、龍渓禅師は入佛開堂の法要を執行中でした。弟子の拙道和尚らは、禅師に再三避難をすすめましたが、禅師は沈着冷静、生死は数なりと一偈を書いて篋中におさめ、自らは堂中に端然と坐禅不動、海水中に入寂されました。『蘆分船には、龍渓禅師の最後を記し、且つその徳を讃えて、次の和歌一首を添えています。
  • 摂津名所図絵
  • 『摂津名所図会』(寛政八年 出版)より
  • ともなつは生死の岸にときすてて解脱の風にふなよそひせよ
  • 世寿69。古人は、龍渓禅師を称して『九条の人柱』とよび、その不慮の死を弔い、かつ又その死を無駄にせぬよう祈ったといいます。その10年後、幕府は河村瑞賢に命じて、九条島を開削し安治川を通しましたが、龍渓禅師の人柱がその動機のひとつになったと思われます。
     後水尾法皇は龍渓禅師の御弟子で、寛文9年(1669)禅師に『大宗正統禅師』の特賜号を下賜されていました。同11年(1671)法皇は、詔し給いて毎年8月水灯施餓鬼を当院に修させ、郷土の災禍を払い、五穀豊穣を祈らしめられ併せて禅師の菩提を弔われ給われました。
     延宝8年(1680)9月19日後水尾法皇崩御遊ばるるや、皇女林丘寺(修学院離宮内)光子内親王は、法皇のご尊碑一基並びに法皇の御念持仏といわれる準提観世音菩薩像(現存)、光子内親王御使用の菊花御紋章入りの乗輿(かご)(戦災で消失)などを当院に御下賜給われ、併せて当院の菊花御紋章使用を公許されました。当院第5代?州和尚の時宝永年間に創建よりの『九島庵』の寺号を官許を得て、『九島院』と院号に変えました。爾来幾多の変遷を経て昭和45年大阪市史跡と指定されました。
     平成2年より復興大事業に着手、息災延命観音像建立、禅苑整備、本堂修築、龍燈会館建築、本堂増改築、だるま堂新築、庫裡新築を行い、近代寺院に生まれ変わりました。
歴代住職
開山龍渓禅師寛文10年(1670)8月23日
二代拙道和尚寛文10年(1670)8月23日
三代達空和尚元禄16年(1703)2月1日
四代永泰和尚享保6年(1721)6月22日
五代瑄州和尚宝永5年(1708)2月19日
六代雄峰和尚正徳4年(1714)8月9日
七代大拙和尚享保19年(1734)10月17日
八代虎嶽和尚元文1年(1736)10月9日
九代印光和尚寛永2年(1749)2月17日
十代湛堂和尚延享11年(1726)9月11日
十一代鉄杖和尚享保11年(1726)10月9日
十二代萬宗和尚安永8年(1779)8月18日
十三代蘭州和尚天明5年(1785)6月23日
十四代楚石和尚文政10年(1827)3月16日
十五代恵眼和尚天保13年(1842)2月25日
十六代物先和尚明治5年(1869)11月9日
十七代文亀和尚明治9年(1876)3月14日
十八代至頑和尚明治15年(1882)12月21日
十九代末童和尚明治19年(1886)5月26日
二十代暁宗和尚明治23年(1890)11月10日引退
二十一代密道和尚明治28年(1895)1月6日
二十二代省己和尚大正4年(1912)12月5日
二十三代榮忠和尚昭和33年(1959)5月20日
二十四代弘忠和尚平成7年(1995)2月3日
二十五代啓知和尚閑栖
二十六代穂積和尚現住